対馬丸 さようなら沖縄
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昭和19年(1944年)8月21日18時35分、沖縄から学童疎開船「対馬丸」をはじめとした船団が沖縄那覇港を出港、その船内には学童疎開児童約826名が乗り込んでいた・・・・・・。
太平洋戦争末期に起こった学童疎開船の悲劇を描くアニメーション作品。
アメリカ海軍は、暗号解読などにより、この船団の予定航路を把握していた。 しかし、アメリカ側は対馬丸が疎開船であることを知らなかった。 8月22日、船足が遅いため、船団から遅れて1隻で航海していた対馬丸は、ジグザグコースをとって魚雷をかわした後に船団に追いつくか、危険だがそのまま直進するかで意見が分かれていたが、結局後者の針路をとり、学童には救命胴衣をつけさせ万が一に備えることとした。
[詳細]
8月22日午後10時12分、鹿児島県トカラ列島悪石島沖でアメリカ海軍のバラオ級潜水艦「ボーフィン (USS Bowfin, SS-287) 」は対馬丸に対して3発の魚雷を発射した。対馬丸は、1発目はかわしたが、2発目と3発目が続けざまに右舷に命中した。魚雷命中による夥しい海水の流入で、縄梯子は流され、階段もすぐに海水につかって使えなくなった。階段へいち早く登った者は、暑さに耐えかねて既に甲板に上がっていた者とともに船倉から脱出できた。しかし、脱出した者の中にも、舷側が高かったため、恐怖から海に飛び降りることができなかった人が大勢いた。一方、配られた救命胴衣が大きすぎたことでうまく使いこなせず溺れた児童もいた。魚雷命中から11分後、対馬丸は大爆発を起こして沈没。爆発の原因は、機関部に魚雷が命中したため、と言われている。船の爆風で救命ボートが転覆し、生存者は台風襲来の中、筏で漂流しながら救出を待つことになった。漂流は、風雨、三角波、眠気、真水への渇望、錯覚等との戦いでもあった。
生存者の多くは、トカラ列島の無人島に漂着したり、嵐がやんでから軍から連絡を受けた奄美大島や鹿児島県揖宿郡山川町(現:指宿市山川町)などの漁船に救出された。最も長い人は10日間の漂流を強いられた。
犠牲者の遺体の多くは奄美大島・大島郡宇検村などに流れ着いた。現地には慰霊碑が建立されている。
他の船は爆雷を投下しながら全速力でボーフィンの攻撃を撒いた。船団全滅を恐れたためか、漂流者救出を断念し、その場を去った。数日後、船団は目的地・長崎港に着いた。
北上していた台風は大東島方面へ逸れた。
最終的に乗員乗客合わせて1418名(資料館発表、氏名判明者のみ)が死亡した。
田中真弓
丸山裕子
安達忍
安原義人
阪脩
納谷悟朗
酒井ゆきえ
熊倉一雄
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