八甲田山
★CD・DVD・カレンダー全品送料無料!最安値に挑戦中★追悼 【送料無料!最安値に挑戦中】 八... |
ロシアの満州南下にともない大陸での開戦不可避と見られた1902年(明治35年)、厳冬期の満州平野での装備品の研究および行軍調査・予行演習を目的として弘前第八師団の友田少将(モデルは友安少将)は、冬期八甲田での雪中行軍の実施を青森歩兵第五連隊と弘前歩兵第三十一連隊に提案(実質的には命令)した。会議のあとに児島大佐(モデルは児玉大佐)と津村中佐(モデルは津川中佐)はどうせなら八甲田ですれ違う行軍計画にしようと気軽に口約束する。そして出発前、弘前の徳島大尉の私邸で勉強会を終えた徳島と神田は、雪の八甲田での再会を誓い合った。
徳島大尉率いる第三十一聯隊雪中行軍隊は、連隊長同士の約束を考慮し、10泊で総距離240kmの強行日程を組み、下士卒中心の少数精鋭で挑んだ。弘前を出発後順調に進行するが、三本木に到達した辺りで、第五聯隊が予定からだいぶ遅れていることに気づき不安を抱く。
神田の歩兵第五連隊雪中行軍隊は、中隊規模での大行軍となり、青森を出発後いきなり八甲田山に挑んだ。しかし、雪山に慣れない人間ばかりの集団でいきなり難所に取り掛かったことが災いし、進軍に影響が出始め、さらには単なる雪中行軍調査のための随員で指揮権のないはずの大隊本部・山田少佐の口出しによって指揮系統が混乱。神田大尉が想定していた案内人の雇用もなくなり、計画が著しく狂ったまま進軍することになる。 何とか山田少佐を止めようとする神田だったが、案の定、夜間に至るまで目的地へはたどり着けず、暗い雪原の中で立ち往生。最後は特務曹長の錯乱によって進路をとうとう見失い、遭難する。田茂木野へ帰還しようとするが、過酷な環境と疲労のために中隊は四散していった。
神田大尉に斥候を命じられた江藤伍長の発見により、第五聯隊本部並びに師団本部が第五聯隊の遭難に気づくが、警告が間に合わず、第三十一聯隊も八甲田山に突入してしまっていた。本部の不安とは裏腹に、第三十一聯隊は計画通りに行軍を進め、過酷ながらも順調に八甲田を進むが、道中、斉藤伍長の弟である長谷部特務曹長の遺体を発見する。これによって第五聯隊の遭難を確認するが、徳島大尉は不安を押し殺して行軍を続けた。
高倉健
北大路欣也
丹波哲郎
三國連太郎
加山雄三
- 関連記事
【映画】 【動画】 【洋画】 【邦画】 【ドラマ】
映画→ 動画→ 洋画→ 邦画