マンデラの名もなき看守
マンデラの名もなき看守 【DVD】 |
ドイツ、フランス、イタリア、ベルギー、南アフリカ共和国合作。
ジェームズ・グレゴリーは南アフリカの刑務官であり、コサ語を理解できるということで、終身刑を受けたネルソン・マンデラを監視するという任務に就くということで、1968年に刑務所のあるロベン島に赴任することとなる。妻グロリアは、夫の昇進が近いということで、大感激であった。最初、マンデラを死刑にすることが当然と考えていたグレゴリーは、独房で実際にマンデラと出会う。実際にマンデラの威厳ある態度に接するに当たり、考え方を徐々に変え始める。マンデラの息子の死に、グレゴリー自らコサ語でお悔やみを言って、お互いに友好的な会話が成り立つ。マンデラは、アフリカ民族会議の『自由憲章』(The Freedom Charter)の意義を、正々堂々、グリゴリーに説く。釈放間近のアフリカ民族会議の戦士へのコサ語の『秘密指令』を上司に報告、その戦士は釈放後に泳がされて連絡先に到着、南アフリカ国軍の襲撃で戦死する。後に、グレゴリーは罪悪感にさいなまれる。
1975年、マンデラ夫婦に便宜を図ったことが新聞報道されて、職場や地域の白人コミュニティーで孤立し、退職を願い出たが却下される。南アフリカ当局は、グレゴリー刑務官のマンデラ番としての役割を重視していた。また、グレゴリーは、マンデラの移送先のボルスムーア刑務所にて、マンデラ番としての『任務』に復帰する。1980年代になると、アパルトヘイト体制批判の世論もあり孤立していた南アフリカ当局も、ネルソン・マンデラに対する待遇を、変え始める。1983年5月30日、南アフリカ国軍司令部前での爆弾が炸裂し、一般市民に犠牲が出る。マンデラやシスルらANC元幹部らを集め、グレゴリーは非難する。『テロ』をやめさせるための指導者マンデラの役割に期待する白人も出てくる。グレゴリーの息子ブレントも成長し刑務官となったが、突然不幸に見舞われる。
1988年、マンデラが、ビクター・バースター刑務所に移り、グレゴリーも転任する。マンデラも刑務所内で広い屋敷が割り当てられるなどの自由を与えられ、アフリカ周辺諸国の高官と会談するまでになる。そして、マンデラ釈放で世界中の目が注目した1990年2月11日がやってくる。
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