天皇・皇后と日清戦争
明治二十七年八月一日、日清両国間に宣戦が布告された。祖母と二人暮しの山田一太郎のもとにも召集令状がきた。老いさき短い祖母は苛酷な運命を呪った。そして旬日、一太郎は、“一太郎やーい”という祖母の悲痛な叫び声を後に宇品港を発った。その頃、宮中では天皇を中心に伊藤首相ら重臣によって大本営の広島進駐が決定された。一方、戦線では韓国の野津師団が激闘の末に平壌を陥し、海軍も海洋島の東北東で四時間半にわたる大海戦を演じて勝利をおさめた。内地では天皇、皇后が率先して国民の志気を高めようと、傷病兵の慰問などに心を尽されていた。黄海の制海権を握った日本軍は山県大将の率いる第一軍と大山大将の率いる第二軍をもって旅順攻略を目指し進撃を開始した。旅順はドイツ人を招いて作った最新式の要塞、攻略作戦も一頓座を来したが、木口小平ラッパ手らの決死的攻撃によって、前面の堅塁、黄金山砲台の陥落に成功した。この進撃に清国は驚愕した。数日後には米国を通して講和打診が行われてきた。これをめぐって大本営では白熱的な論議が闘わされた。この間にも威海衛攻略の火蓋は切られた。第二軍は威海衛軍港の背面に迫り、海軍が軍港の奥深くひそむ北洋艦隊に決戦を挑んだ。闇黒の海面を修羅場に化した水雷夜戦。こうして清国海軍は“定遠”以下の多数の艦船を失い、威海衛は陥ちた。この形勢に狼狽した清国は、ついに講和使節を送ってきた。二十八年三月十九日、講和全権として李鴻章一行が下関に上陸、翌二十日から講和談判が始った。李鴻章が一暴漢に狙撃されるという一幕もあって、講和談判は日本側に有利な結果をもって終った。しかし勝利の歓喜が、まだ全国に達せぬうちに突如、日本の息の根を止めるような大事件が起った。ロシア、フランス、ドイツが、清国の同意を得て割譲される筈の遼東半島の領有権を放棄せよというのである。しかも世界情勢は日本に不利、平和を希う天皇は遂に三国勧告受諾の聖断を下した。
明治天皇 嵐寛寿郎
昭憲皇后 高倉みゆき
伊藤首相 阿部九洲男
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